こんにちは〜! 今日は、
前回の再掲記事とも関連させて、
昭和の時代に私が実際に故郷で見聞、経験した古い慣習や生活文化について書いておきたいと思います。
しばらく前から書き残しておきたいと思っていましたが、やっとこの度実現ということで。
ブログで何度も書いていますが、私が生まれ育ったのは岡山県の県北部の田舎町です。
今回ご紹介するのは、小中学生の頃を中心に、この町に私が暮らしていた高校3年生頃までの生活の記憶で、1970年代〜バブル直前の80年代半ばごろまでの話になります。
1970年代〜80年代半ば頃(昭和40年代後半〜昭和60年頃)というと、日本の都市部はイケイケの時代で、発展とともに前時代的な生活様式や慣習が消えていった時期かと思いますが、私の住んでいた田舎ではまだまだ、戦前から続く古い慣習が途切れることなく続いていた時代でした。
なので、ずっと都会で暮らして来られた方でしたら、たとえ私と同年代であっても、「えっ? あの時代にまだこんな状況だったの?(@@)」と、カルチャーギャップを感じられる方もおられるかと思います。
あまり、共感が多く得られる内容ではないと思いますが、記録として書き残しておきたいという思いがありますので・・新鮮な気持ちで読んでいただけますとありがたいです!
それでは、
ソラリスの昭和語りに、しばらくの間お付き合いくださいマセ☆
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(1)家の前の道路を「馬」が歩いていた! 〜 ペット以外の動物がごく身近にいた生活牧場や競馬場、厩舎周辺は除いて、道路を馬が歩くというのは、戦前かせいぜい戦後すぐの昭和20年代ぐぐらいまでの光景だと思われるでしょうが、
うちの田舎では少なくとも私が中学生か高校生ぐらいまで(1980年代前半ぐらいまで)は、家の前のアスファルトの道路を荷車を引いた馬が歩いていました。私が見かける時は何かを積んだ状態ではなく、たいてい空の荷車を引いて歩いていた気がするのですが、特にそれを珍しいと思うこともなくて時折見かける日常風景でした。
大人になってから親に、「あの馬は一体何のための馬だったん?」と問うと、おそらく材木を運搬していたんだろうと。
山あいの故郷の町には製材所がいくつかあったので、そう考えるとまぁ不思議ではないのですが・・トラックより使い勝手が良かったのか、どういう理由があるのか、 今から思うとあまりにも前時代的な光景であったことに驚きます

私より14歳下のいとこは、馬が道路を歩くのを見たことがないと言うので、そこから考えても80年代末までにはおそらく消滅してしまった光景だと思われます。
馬が通った後には道路によく馬糞が落ちていて、今はそれすらも(臭いなども含めて)懐かしく思い出されます。これ、今だったらちょっとした苦情案件になるかも?!(笑)昔はこんなことで、いちいち苦情言う人はいなかったから。
カッポ、カッポという小気味の良い蹄の音がまた懐かしい!!
夏休みなどは家にいることが多いから、余計にお馬さん遭遇率が高かった気がします。
馬以外にも、同級生の男の子の家では普通に牛が飼われていたし(おそらく農業用かと)、幼なじみの友達の家ではチャボ(鶏の一種)を飼っていて、家でチャボが産んだ玉子を食べていました。また、これは都市部でもそうだったと思うのですが、犬は番犬用も兼ねて、家の外庭で犬小屋で飼うのが普通でした。
友達の家でももちろん可愛がってはいたけど、今のような「ペット」とか「家族の一員」みたいな意識はまだあまりなかったんじゃないかな、この頃はまだ。
ある意味、この70年代初頭の教科書に近い世界だったのかも(2)旧暦で行われることが多かった季節行事今はどうかわかりませんが、少なくとも
私が暮らしていた1980年代途中までは、うちの田舎では新暦よりも旧暦で行われる行事が多かった記憶があります。
お盆はもちろんのこと、七夕も1ヶ月遅れの8月7日に、桃の節句であるひな祭りも3月3日ではなくて4月3日に行われていました。
でも、端午の節句などは新暦通りに5月5日に行われていたりしたので、この差は一体何だったんだろう?とは思いますが。
私が覚えているのは、4月3日のひな祭りの日には、女の子がいる家にはお菓子が配られていたこと。
年によって多少違ったかもしれないけど、小さいひな祭りケーキみたいなのが入っていたり、ひなあられや桜餅も入っていました。
端午の節句の日にも、男の子ではないけれど、「こどもの日」ということで柏餅とかお菓子が配られていた記憶があります。
地区の婦人会のおばちゃんが、各家庭を回って配ってくれていました。
主婦はほとんどみんな、その地区の婦人会に加入していて、地域行事では(主に割烹着姿で)大活躍していました。
私が10代の頃の、祖母の初盆の時の写真。
もちろんこれも8月です(3)「講組」のシステムが、うちの田舎にはまだあった!!昔、日本史を習っているときに「頼母子講」のことが鎌倉時代か室町時代のあたりで出てきて、その時に「これってもしかしたら、うちでたまにやってるやつ??」と思ったものの、その時はあまり深く考えませんでした。
ちなみに
「講組」とは、
『経済的、信仰的または親睦その他の目的で、集落の全戸または任意の人たちが結成する地域集団。 頼母子(たのもし)、無尽などの経済講、伊勢講、富士講などの代参講、念仏講、三夜講、庚申講など信仰的なものなどがある。』(コトバンクから引用)ということで、要は同じ集落に住む家々が助け合う共助システムなのですが、
私の住んでいた田舎の集落では少なくとも1980年代の半ば頃まではこの仕組みが残っていました。同じ講組のメンバーである何軒かの家が、どのぐらいの頻度だったかはもう覚えてないのですが、持ち回りで自宅で「講」を開催していました。
それぞれが持ち寄った(おそらく多くても数万円までの)お金を、その時にある程度まとまったお金を必要とする人が「取りたい」と表明し、融通しあう感じだったのではないかと思います。うちで「講」が開かれる夜は、祖母らから
「こっちの部屋には子供は入るなよ!」という無言の圧を感じ、その様子を近くで見ることができなかったので、誰がどうやってそのお金をもらえることが決まるのか?という詳しいシステムは結局わからないままなのですが・・子供から見ると、
大人だけの秘密
の取引をしている感がありありとうかがえて、ちょっと怖かったのを覚えています。(決して悪いことをやっているわけではないはずなのですが^^;)
もしかすると今でもこういうシステムが残っている地域があるかも知れませんが、少なくとも大阪に来てからはそういう仕組みがあることを見聞きしたことは一度もないので、田舎だったからこそこういう昔からのシステムが残っていたんだろうと思います。
田舎ほど、先祖代々ずっとその土地に暮らしている人が多いので、昔の風習や慣習が残りやすいですよね。
(4)今思うと理不尽で可哀想すぎる!わけもわからず「怖かったおじさん」の存在現在はなんでも白黒の線引きが為されてしまう風潮がありますが、昔はちょっと「ワケあり」なグレーゾーンの存在や行為が見逃され、黙認されていました。
そのため、町内や近所には、そちら系との関わりがある人やワケありの家庭が少数ながらも存在していました。
まだ幼い頃、私が小学生ぐらいまでの時、祖母などからよく言われていたのが、
「早う帰ってこんと、〇〇やんが連れに来るで!」というおどし文句でした。
この
「〇〇やん」と呼ばれていたおじさん(今の感覚だとおじいさんに近い)は、私が知っている限りでは2人いて、それはうちの家だけで言われていたわけではなくて、近所の幼馴染もお母さんなどから同じように言われていました。
そういうことを言われていたもので、その2人のおじさんは子供をさらって帰る怖い人なんだと思っていて、たまに道を歩いているのを見かけると怖かったし、家の前で私の方を見てニヤッと笑いかけてこられた時は、戸惑い慌てて目をそらしたものです。
その子供達から恐れられていた1人の方のおじいさんが実際はとても良い人だったこと、クズ鉄拾いをするなどして貧しかったけれど、昔は祖母らが「うちに上がってお茶でも飲んで行きんさい〜」などと時々声をかけていたこと、ちょっとした交流があったことを親から聞いたのは、結構最近のことです。それを聞いた時に思ったのが、
「じゃあなんで、そんなええおっちゃんの名を子供を怖がらせる材料に使ったん?!可哀想やろ〜(悲)」と。
私の顔を見てニヤッと笑ったのも、単に知っている家の子供を見て優しく微笑んでくれただけだったんや〜!と。
何も知らなかったとは言え、怖がって逃げたり家に入ってしまったり、とても申し訳ないことをしていたなあと思いました。
昭和の頃って、先に書いたようにグレーゾーンが黙認されて色々な面で緩かった点は楽で生きやすい世の中だったと今でも思うけど・・人権感覚が薄いというか、こういうところはあまり深く考えてなかったんだろうなあ。
「人さらいのお化けが来るで〜!

」とか、実在の人物とは関係のない対象を使って、怖がらせて欲しかった

(それもあったとは思うけど)
(5)屋号で呼ばれることが多かった家々など〜 盛んだった家同士、人同士の交流子供の頃、家族や町内の人など大人同士が交わす会話の中に、たくさんの「屋号」が飛び交っていました。普通なら苗字で呼び合うところを、
「〇〇屋」という屋号で呼び、またそれが通じるんですよね。
「ゼニ屋」「初屋」「キヅキ屋」・・・
昔のその家の家業、商売が語源と思われる屋号もあれば、子供からすると全く意味不明の屋号もありました。
屋号というのとはちょっと異なりますが、
「新聞屋」「牛乳屋」「拝み屋」(祈祷のようなことをやっていたらしい)などのように、その家の家業がそのまま呼び名にあっている家も数多くありましたっけ。
曽祖母、祖母の代はもちろん、親や叔父の代でもこの「屋号呼び」で普通に通じていましたが、私の世代になると耳にすることは多々あっても、昔はやっていたと思われるお商売を廃業されている家も多くて、もう通じないし自分でも言わない感じになっていました。
屋号は別にしても、昔は、親類縁者でもなければご近所さんでもない(むしろ同じ町内でもかなり家が遠い)、子供時代からの友達や今でいうママ友というわけでもないのに、祖母と付き合いのある人がなぜかたくさんいて、
「このおじさんとどういうご縁で懇意にしているんだろう?」と思うような人が数多くいました。
曽祖母の代からの付き合いも含め、親はある程度知っていますが、親でさえわからないご縁の発端も多いようで、そういうのを祖母からちゃんと聞いておけばよかったと今なら思います。聞いても忘れてしまっていたかも知れませんがw
それに加えて、我が家には「富山の薬売り」や鳥取県からやってくる魚の行商人のおばちゃんも立ち寄っていたり、昭和40年代には、学校の先生や農林業関係の公務員の方がうちの裏庭にあった離れに下宿されていた時期もありました。
私はまだ物心がつくかつかないかぐらいの年齢ではありましたが、この頃に下宿していた先生やおじさん(お兄さん)の名前と顔は今でも2人ぐらいは覚えていて、相当可愛がってもらったようです^^
人の出入りや交流が多い家だなあというのは、子供の頃から感じていましたね。
酒屋さんや米屋さん、魚屋さんの御用聞きと配達、ダスキンの定期交換、学研の科学や学習、マイコーチを持って訪れるおばちゃんも毎度のお馴染みさんでした。
酒屋さんからはキリンの瓶ビール、米屋さんからはお米の他に、一時期「プラッシー」をよく購入していました(懐)。
私のかなり幼い頃の写真。
親戚のお姉ちゃんが撮影してくれたモノクロ写真です(6)(4)や(5)とも関連して・・閉鎖的だが、意外に多様な人が暮らしていた田舎町田舎、特に昔の田舎というと、閉鎖的であるという負の部分のイメージも根強いと思います。
確かにそういう面はあるのですが、
今になって思うのは、田舎であるにも関わらず、意外に多様な人が暮らしていたなあということです。先にも書いたような、
いわゆるちょっとした「その道の」関係者、子供には恐れられていたが本当は良い人だったというクズ鉄拾いのおっちゃん、今でいうところのLGBTの飲み屋のおっちゃん(この人もめちゃいい人だったみたい)、二号さんとして生活していたおばちゃん(このおばちゃんにはとても可愛がってもらって、感謝しています!)、他にも色々な事情や噂がある人・家庭がありました。
うちに長く居候していた親戚のおじいちゃんも、それこそ自分の孫のように私を可愛がってくれて私にはとても良いおじいちゃんでしたが、
ワケありの人生を送った人でした。
逆に、
「先生」と呼ばれる地域の名士的な存在の人もいたり、上品なお金持ち(当時は
分限者(ぶげんしゃ)という呼び方をしていた、特にうちの祖母などは)の人もいて、田舎なりに色々な部類・階層の人が暮らしていたなあと思い返します。
田舎というと人口も少ないし閉鎖的なために、住んでいる住民も同じような部類の人ばかりと思われがちですが、意外とそうでもなかった。
ちょっとした陰口や噂話などはありつつも、地域から糾弾を受けたり抹殺されたりすることもなく、様々なワケありの人が黙認されて普通に暮らしていた記憶があります。(4)で書いたように、
人権意識は低かったけど、かといってその人を正義を振りかざして攻撃することもなかった。むしろ存在を認めていた。そういう点は昔の方が社会全体が懐が深かったと思いますね〜。不思議なバランス感覚がありました。
こういうところは、「寅さん」や「じゃりん子チエ」の世界観と共通していると思います。
(7)お祭りの日には、チビッ子もチビっと飲酒公認! 花札もよくやっていたもう何十年も前の昭和の話で時効ですので書きますが、特別なハレの日、特にお祭りの日には、大人が私たち子供にも
「ちょっと飲むか」と軽くビールをすすめてくれていました(笑)
それ以前に、私は、幼い頃からちびりちびりと事あるごとにビールを飲ませてもらっていた

ので、お祭りの日に初めてビールを飲んだわけではなかったのですが、
「未成年はお酒はダメ!!」と咎められることはないし(ただし、節度はありました)、それが当時の、少なくとも私がいた田舎町ではごく普通のことでした。昭和の末に大阪に来て、大阪でもそういうことが大人と一緒の場では黙認されていたことを知り(一部の話なのか全体の話なのかはわかりませんが)、そうなんだ〜!と思ったのを覚えています。
また、うちの家では、
私が小学校高学年〜中学ぐらいの時に、夜になると「花札」をするのが一時期ブームになっていて、時折、私も混ぜてもらっていました(笑)
家族だけではなくて、いつもうちに祖母を相手に世間話に立ち寄るおばちゃんも混ざることもあって、
私はこのみんなで丁々発止しながら花札をする夜がとても好きでした。こたつの天板を裏返して「緑色」の面を上にしてスタンバイ(笑)、始まるとうちはマッチ棒で点数計算をしていました。
祖母と、居候していた親戚のおじいちゃん、祖母と仲の良かったおばちゃん。この3人が花札が強くて。
麻雀やその他の勝負事もそうらしいのですが、行き方にその人の性格が出るというのは、子供ながらにうっすらとわかりました。
母は全然ダメで、他の人の役を防ぎつつ、自分の役を追求するという発想はあまりなくて、自分の取りたい柄の札を取れたら良い、みたいな子供みたいな感じだった。それでよく、祖母に怒られていた(笑)
母曰く、みんながするからたまに一緒にいたけど、あまり花札自体は好きではなかったらしいです。
私は子供だし弱い方だったけど母よりはだいぶマシで(点数計算すると、いつも最終的には少しマイナスになっていたけど)、
この時の大人みんなのやりとりが面白くて本当に楽しかったな〜
花札については、家によって方針の違いがあり、子供がこんなものに触れるのは良くないとする家庭も近所でも少なからずありましたが、うちはそういう点ではめちゃユルかったので、我が家でも指折りのとても良い思い出として心に残っています
多くの人にとっては、「任天堂」といえばゲームだと思いますが、ゲームをしない私にとってはいまだに任天堂と言えば「花札」!のままです。
(8)地域の運動会の後に、みんなで神社でお弁当 〜 今になって知る、古代出雲はじめ山陰の影響・交流が強かったと考えられる土地柄私の住んでいた町では、学校の運動会以外に、町内の地区単位での運動会が行われているところもありました。
私の家のあった地区もそうで、毎年5月だったと思うのですが、学校のグラウンドを借りて運動会を行っていました。
こういう
地域単位での運動会が成立していたこと自体が、まさに昭和ならではという感じですが、私の住んでいた地区では、
同じ班の住民が運動会が終わった後に、地区内にある神社の境内でみんなでお弁当を食べるという習慣がありました。当時はそれを特に何とも思っていませんでしたが、近年、古代史に興味を持つようになってから、
祀られている神様の前で人々が一緒にご飯を食べるというのが古代出雲の風習であったことがある本に書かれていて、もしかすると古代出雲の風習の名残なのではないかと思うようになりました。
というのも、私の住んでいた地域は岡山県でも北部に位置し、出雲へと通じる出雲街道ともそう遠くない場所にありました。
親の話では、地区内に元々は山陰からやってきたらしき家が何軒かあったようで、屋号のところで名前を出した
「キヅキ屋」さん(私もこの家は知っています)は、「杵築」という字を当てるのではないかと。
どうやら、この家も山陰から流れてきたという話が残っているらしく、それならもしかすると「杵築大社」(=出雲大社)の近くにもとは住んでいた一族であった可能性もあります。
また、今から20年ほど前に島根県の松江・出雲周辺に行った時に、たまたま出会った80代以上と思しき地元のおばあちゃんが、私が岡山県の津山の辺りの出身であることを話すと、
「昔は、津山と出雲街道を通じて人や物の行き来が盛んだった」旨のことを話してくれたことも覚えています。
私の住んでいた岡山県北部の町は、鳥取から魚の行商に来ていたおばちゃんと言い、富山の薬売りと言い、
県南部の岡山や倉敷よりも、日本海側との繋がりの方が深いことを昔から感じてはいましたが、古代史に興味を持つようになった昨今、それが余計に腑に落ちるようになりました。
田舎であるほど、昔の風習や痕跡が残っていることが多いものですが、現在ではおそらく富山の薬売りも鳥取からの魚の行商も来ていない可能性が高いですし、深刻な過疎化や時代の流れなどもあって、もしかすると地域の運動会自体も神社でお弁当を食べる慣習ももう行われていないのではないかと思います。
昭和の時代は今よりも、歴史の名残を色濃くとどめていたように思います。
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以前から、こういうことをまとめる形で書き残しておきたいと思っていました。
ブログなんて所詮、ブログ機能を提供している会社が提供をやめてしまったら簡単に消えてしまうシロモノですが、どうしても都市部での生活や流行を中心に語られがちな一面的な昭和に対して、なんかこうもっと、地方・田舎でのもっとリアルな昭和の空気感を、
一つ前に投稿した「昭和のヒトヒラ」の記事と併せて記録しておきたいとの思い。
とは言え、こうやって書いていると、途中でも書きましたが、「じゃりん子チエ」や「寅さん」の世界とも共通する雰囲気、多分にありますね。
まあ、寅さんやチエのいた生活圏は、一応、東京と大阪という大都市ではあったけど絵に描いたような下町だったからな〜。
・・まぁ、途中の私のまだ幼くて可愛かった頃の写真だけでも見てやってください


まだまだ暑いですが、もうすぐ9月。晩夏の季節になりましたね〜
追記:デアゴスティーニから、寅さんのDVDマガジンが発売されましたね〜^^
私はとりあえず、自分が特に好きな回のDVDは買おうと予定していますよ〜